- 円満寺について
- ABOUT
円満寺 本堂
⼾沢藩の祈祷寺として、
城下の⻤⾨にあたるこの地に建⽴
円満寺は、宗祖弘法⼤師、真⾔宗のお寺で、江⼾時代のはじめ、⼾沢藩の祈祷寺として、城下の⻤⾨にあたるこの地に建⽴されました。
当⼭の本尊はもともと五⼤明王であるが、江⼾時代、当時の藩主が領内の繁栄のため幕府に歓喜天を祀っても良いか打診し、許可が降りたことから歓喜天が祀られるようになりました。本堂とは別に、歓喜天堂にお祀りしています。歓喜天は普段公開しておらず、住職しかその像を⾒ることを許されておりません。参拝者が出⼊りする歓喜天堂の正⾯には、歓喜天の化⾝である⼗⼀⾯観世⾳菩薩を祀っており、通常はこちらの像の前で護摩を焚きご祈祷を⾏います。
- 円満寺の歴史
- HISTORY
正式名称を「⼩杉⼭吉祥院圓満寺」といい、元々の所在地、秋⽥県⻄仙北郡⼩杉村に由来しています。⼤同2年(807年)、坂上⽥村⿇呂が開いたとされ、平⽒政権の成⽴頃から安⼟桃⼭時代には、当時⾓館町⼀帯を⽀配していた⼾沢⽒の庇護を受け、寺領500⽯を有しておりました。⼾沢⽒の祈願所のため、常に随⾏し、⼾沢⽒が⾓館から常陸松岡(茨城県⾼萩市)を経て元和2年(1622年)、新たに新庄半の領主になった際、円満寺も新庄城の⻤⾨にあたるこの地へ居城鎮護、領内安全、五穀豊穣等の祈願所として移転してきました。
大聖歓喜天
⼤聖歓喜天とは元はインドの神様です。⽇本では、聖天様、歓喜天様と呼ばれます。象の顔をしており「智慧(ちえ)と愛とお⾦」を与えてくれる神様です。
- ご紹介
- PROFILE
住職山尾順紀
副住職山尾瑛紀
- 円満寺の伝説
- LEGEND
⼤威徳明王像のタニシ伝説
寛永元年(1624年)9⽉の⽕災では、本尊の五⼤明王のうち⼤威徳明王だけがなぜか本堂前の池の中でびっしりとタニシが張り付いた状態で焼け残っていたという⾔い伝えがある。「⾃ら池に⼊られた」「タニシが連れ出して守った」など当時の⼈の間で話題になったというエピソードがある。中央の不動明王も⽕災をくぐり抜けより⼀層の迫⼒を増し、今も本堂に奉られている。